その他

新制高校の歴史

1948年  新制高等学校は後期高等教育とよばれ、新たに義務制になった新制中学校との一貫性を前提に出発。義務制ではないものの、できるだけ多くの生徒を受け入れ、希望するすべての者が入学できることを理想として、学校間格差がない、「男女共学」「総合制」「小学区制」が志向される。1952年以降小学区制は激減し、学区制は解体に向かう。

1954年 文部省「高校教育を受ける能力のある者」のみを入学させる方向に転換することを決断。初等中等教育局長通達で「選抜の主体が高等学校校長にあること」を明示。(「適格者主義)のはじまり)

1963年 学校教育法施行規則第59条が改定され、中学校からの調査書と学力検査の成績で入学者を選抜する法的制度が定着。

東京での障害児・者高校入学運動
1979年「養護学校義務化」を阻止しようとする運動。
映画『養護学校はあかんねん』

1984年以前東京南部地域の定時制高校で、障害児の受け入れが取り組まれる。
南葛飾高校定時制は「入学を希望する生徒は一人も切り捨てない」という取り組みをする。

1985年文京区の山尾五月君、近くの定時制高校入学。30名募集で19名受験。五月君のみ定員内不合格。お父さんの謙二さんは高校と交渉を続け、入学を果たす。

1985年3月「中学卒業後の進路を考える討論、交流集会」金井康治、佐野雄介の2人が高校受験を表明。

1985年9月「障害児・者の高校進学を実現する連絡協議会」結成。東京都教育委員会との交渉が始められる。

定員内不合格問題
 2023年 多くの都道府県で定員内不合格のため障害児が高校入学をはばまれている。
東京では1980年代後半、都教委に定員内不合格をなくすよう連絡協が求めてきた。
 交渉の中で「意欲と希望のある者を一人でも多く受け入れる」ことを都教委に確認させ「定員内不合格については好ましいことではないので、都として各校に強く指導する」ことを確認させた。

 1990年 これまで障害児の受け入れが良かった松原高校定時制で6名の障害児が定員内不合格となる。連絡協は松原高校に出向き、長時間の交渉の末、「二次募集をすることで6名全員を受け入れる」と約束させた。これ以後、都内で定員内不合格はほとんどゼロになった。(1993年片倉高校全日制で定員内不合格が発生)
 都教委は「定員内不合格は根絶する」と表明している。

特別措置の歴史

「選考の特例」について
1984年 三人の視覚障害の人たちが都教委と交渉の末、点字受験を行い三人合格。そのうちの一人が第二志望の高校に合格したが、第一志望の高校に変更できた。これを受けて都教委が1985年に「選考の特例」を制度化した。

金井康治さん受験時の「配慮」
1987年3月
・時間延長(1.5倍)
・拡大コピー(B5→B4)
・本人が了承した介助者をつける(介助者3名交替で1教科に2名づつ)
・記述式問題は選択肢問題に差し替え(数学、漢字の読み書き、英作文もすべて選択肢。全問4~5択)
・介助者による問題文の音読。
・5~6cm四方の5枚のカード(ア〜オ)を机にセロハンテープで貼り、本人がそれを指差して解答。
・介助者が解答用紙に代筆。

調査書「○A」について
1987年1月26日
都教委との確認。
1.入試要項の『身体に障害』のある志願者で学力検査を行わない教科のうち、障害の特性上著しく学習が困難な教科については、本人の不利益にならないようにする。
2.『身体に障害』という表現については障害の種類によって区別するのではなく、それぞれの個人に即して全体的にとらえ『心の障害児・者』を排除するものではない。註)

1987年 「要綱」の記載 において、身体に障害のある志願者で、学力検査を行わない教科のうち障害の特性上著しく学習が困難な教科のある場合については、その教科の名称を◯で囲み、調査書の右横にAと朱書する。1988年に「身体に障害」の文言の「身体」が除かれ、単に「障害」となる。1994年 「選考の特例」の変更により、高校を受験する場合、個人面談を行って加点(94年は2割の加点、95年以降は1割の加点になったようだ)
註)1987年 「障害のある受検者に対する特別措置申請書」は1987年に作られた。